気まま・ベルリン百景 (三)

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ベルリンは、今も変わらず、街全体が工事現場。
新しいものがつぎつぎ建設され、あるいは、修復、改築されている。
それだけたくさんの思い入れや、情熱が常にぶつかり合っている街。

中でも最近いちばん熱い話題となったのが、「共和国宮殿」の取り壊しである。そしてその跡地に、戦後しばらくまで数百年存在していた「ベルリン城」を再建し、内部を博物館にすることが最終決定となった。

「ベルリン城」は、当時のプロセイン王のドイツ皇帝の居城だった。第2次大戦後に東西が分断された際、東側に位置していたことで運命が決まった。当時の社会主義の支配階級によってまもなく爆破されたのだ。バロック風の石造りの外壁を持つ、美しい重厚な建物であったが、それも旧東体制では過去の「プロセイン帝国時代を象徴」する忌まわしいものでしかなかったのだ。

その跡地に、旧東ベルリン市民のための「人民の家」として建てられた「共和国宮殿」。それは、人民議会議事堂と、映画館、ボーリング場、コンサートホール、レストラン、カフェなどのレジャー施設がひとつになった、当時の市民にとっては文字通り夢の家で、たいそう賑わっていたという。

その外見は、鉄筋コンクリートに、アスベストを使い、琥珀色のガラス張りの平面的な箱のようなもので、「宮殿」という名からは程遠い。時代遅れのオフィスビルのようなものだ 。これは当時の体制下においては最先端をいくデザインだったらしいが壁崩壊後廃墟と化していた。

黒光りし、大きく立ちはだかる巨大な箱を「不気味」と思う目も、特に観光客にはあったに違いない。「なぜこんなところにこんな建物が放置されているのか」と。しかしその見方は、この建物が生きていた時代の、その人々の楽しい想いや、建物のたどった歴史の数奇さを知らない、あるいは考えもしない人特有のものでしかない。

壁が崩壊して、東西がひとつになってから17年。長い長い討論の末、今度はこの「共和国宮殿」が取り壊されることになった。

アスベストの撤去処理は早くに施されていたからそれが理由ではない。この建物は「社会主義を象徴する独裁的なものを髣髴とさせる」時代にそぐわない建築物であるから、そして、その時代遅れの外見がすぐ近くにある世界遺産の重厚感とあわない、つまりはめざわりだからだ。

ドイツが再統一されてからというもの、常に旧東時代のもの(思想を含め)すべてを否定され続けることに反感を覚える旧東市民も多いと聞く。当然であろう。「お前の母さんでべそ」といわれて理屈ぬきで腹が立たない人がいるだろうか。「母さんはでべそでない」と思うかもしれないし「でべそのどこが悪い」というかもしれない。たとえ科学的に「でべそは悪である」と立証されてそれが分かっていたとして、感情面ではどれほどの違いがあるだろうか。見方を変えれば悪がすなわち善であることが世の中には多いし、どちらがマジョリティーであるかによって善と悪が入れ替わることすらある。自分の一部であるものを、理由が何であれ悪と定義され、切り離される時の気持ちはどんなであろうか。

「共和国宮殿」の取り壊しについては、だから旧西と旧東の意見の相違により真っ向から対決する形になっていたようだ。繰り返しになるが、この時代遅れの建物は、その前何百年からあったまわりの建物との調和が全く取れていなかった。そして私個人の目を含め、大多数の目には醜くさえ映ったと思う。だから、これが取り壊されて伝統的な石造りのベルリン城が再建されれば、街の景観にもかなり貢献するという意見には異論は全くない。

しかし、取り壊される今となって考えてみると、そのまわりと調和しない姿、孤立した姿にこそ意味があった。生い立ち、繁栄、衰退、廃墟、再生、懐古、撤去、、、その歩みを思うとき、あるいは周囲との歪をもったこの立ち姿を思い出すとき、愚かな戦いの歴史やそれを生み出した両サイドの、そしてそのまわりの人間の、そしてそれぞれの時代の愚かさを思い起こさせてくれる貴重な建物だった。

ベルリンは異質さの共存が許される、許されなければならない、許したい街だ。だからこそ壁崩壊後廃墟となった外観のみの「共和国宮殿」の歴史の残物でさえ、それは、平和な国のお茶目な演出として立派なオブジェだったと思う。ましてや、この建物はここに生きる、ある人たちにとって、つまり旧東出身者にとっては当時のレジャーの中心だったというし、旧東市民にとっては政治的な意味合いよりも、個人の過去の幸せの象徴としてこそ大切にしたかったかも知れない。

取り壊しと聞いたときに、ふと思い出したのは、旧西の繁華街にあるカイザーヴィルヘルム教会。この教会の尖塔部分は大きく欠けている。戦時中に爆撃を受けたまま、修復をしないでそのままにしてあるのだ。

このおぞましい姿をはじめて目にしたときは痛々しく、告白すると「趣味が悪い」とひそかに思っていた。それはきっと、いやなこと、過去の汚点やたとえば戦争のことなど考えたくないと思ったからであろう。でも人は、失うことによってのみ、命のはかなさを感じ、謙虚に生きていくことができると思う。尖塔のあったはずのいびつな傷をみあげると、さわやかな青空をバックに白い雲が流れていく。

ひとの学習能力は頼りないもので、目の前にないもののことなど意外に簡単に忘れてしまう。ふと見上げれば目に飛び込んでくる街のトレードマークに刻み込まれた人間の愚かさは、歴史や道徳の教科書よりダイレクトに心に届く。聖書が読めなくても、宗教画をみればメッセージが伝わってくるようにいとも簡単だ。先人の示してくれた過ちのおかげで、自分自身が体験することなしに芸術を通して喪失感を再感できるのだ。それによって人は平和の中にいながら、殺し合い(戦争)を何があっても容認しないという気持ちを育てることができ、それが世界の平和につながっていくかもしれないし、今の自分の充足を認識することで、少なくとも個人の心に平和をもたらしてくれることがあるかもしれない。

時には大切な歴史の生き証人が取り壊されていくことも仕方ないが、「過去を忘れない」重要性は、ベルリンにいると非常に大切なものの事のように思えてくる。

それを象徴するかのような動きがあった。旧西出身者による「共和国宮殿」取り壊しの提案がなされて機が熟していくにしたがって、旧東西の出身地に関係なくこの問題の関心が若者やアーティストたちに広がっていき、クラブやギャラリー、期間限定カフェなどの数々のイベントが、すでに廃墟と化していた「宮殿」で行われ話題を呼んだのだ。芸術やファッションというものは、旬の問題をさまざまな形にかえて提起していく生き物のようで面白い。おかげでおなじ共和国宮殿でも、おじいちゃんとその息子、その孫では三世代三様の姿を見ることになった。

そして、ついに、ついに「ベルリン城」再建が可決され、取り壊しが始まったが、予算がまだ足りないので、必要経費が寄付で集まるまでは、まず緑地にされるという。

街の建築の歴史は、その時代背景をそっくり写した時代の足跡でもある。
しかし正確には、その時代の支配者の、といわなければならないが。

いちばん多くの、その街の市民の声は、このような街の重要な決定にはそれほど影響を及ぼさない。だから無力、といえるだろうか。たとえ何が取り壊されて、何がどのような形で作られても、どんなに価値観やルールがめまぐるしく変わっても、特にベルリンではそれが日常茶飯事であったし、今もそうであり続けるからか、皆意に介していないように見える。

目の前の変わり続ける形に惑わされることがないのは、政治的な思惑とは別に、個人的にそれぞれの心にめいめいの思いや、考え、歴史が昔も今も生き続けているからのような気がしている。刻々と変わっていくものを納得しないまま受け入れるよりも、すべてを忘れてしまうことのほうが簡単であるのに、ドイツ人は実にいろいろな過去のことを鮮明に覚えていて、淡々と語ってくれる。

その時々のルールに従いながらも、「個」の考えを大切に持ち続けるベルリン市民にはたくましさ、力強さを感じる。目に見えることや形で自分を納得させるのは簡単だが、見えないものを信じ続ける、または覚えておくことは、とてもむづかしい。それに、人は思い通りにいかないときこそ、そのほんとうの力が試されるのだ。
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写真は、プランツラウアーベルグのある古いアパートの中庭からずっと奥に入ったところにあった(はずの)小さな公園。あれからしばらくして、思いたったようにまたこのあたりのアパートにこの公園を探しに出かけたが、どの番地の中庭からもたどりつくことができなかった。

天気のよい日、さわやかな空気と静かな時間が流れていた。そのアパートの住民の憩いの場のようだったが、あのとき人はほとんどおらず、たくさんの雑草が風に大きくなびいていた。

手前の壊れた石像は、「ベルリン城が壊されたときにそのかけらを誰かが運んできたもの」。歴史に翻弄されつづけてきたベルリンは、今もそこに住む人々の思いが静かにではあるが、街のそこかしこにあふれている。足早にすぎると全く存在しないものが、耳をすまし、目を凝らすとうっすらとその形をあらわしてくる。
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by sommergarten | 2006-07-15 07:09 | 街角ブレイク
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