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GOTTLOB (SCHOENEBERG)

休日の太陽はいっそうまぶしい。
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地下鉄の駅から歩いてすぐそこの角。室内の席より外の席数のほうが多いが、それもすぐにうまってしまう。
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教会の近くにある故、神の加護ありなのか、冬の間に空席が見つかったことなどほとんどないくらいの盛況ぶりである。だから席数が倍以上になる夏、それも外の席が特等席の今がチャンス。空いている店内の席で、このカフェが好きな理由である「一枚の絵」をゆっくりと堪能できる。それは、この窓枠いっぱいにひろがる教会の姿。
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ラッテマッキアートをお供に、教会に反射する太陽の光に夏の到来を感じていると、さあ今シーズンもまたがんばって働こう、なんていう力がわいてくる。神の仕業か、天気の効用か、はたまたただの気まぐれか、それは神のみぞ知る、だ。
いずれにしても「嗚呼ありがたや(GOTTLOB!)」― 確かにそんな気分にさせてくれる。

GOTTLOB
AKAZIENSTRASSE 17
TEL. 030 7870 8095
(U)EISENACHER STRASSE
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by sommergarten | 2006-05-30 06:29 | cafe

STRANDBAD-MITTE (MITTE)

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カフェの名「STRANDBAD(シュトランドバート)」は「海水浴場」の意。ドイツには北のほうに海があるが、風がきついのでこのカフェの表に出ているような風除けの箱の中に入って日光浴をするのが定番である。砂浜にこの箱がたくさん並んでいる様子はまだ写真でしか見たことがないが、なんとなく優雅で、海水浴場によくある子供の黄色い声はあまり似合わない。ドイツの北海は高級リゾートで、代表はSYLT島。大人の落ち着いた雰囲気が漂う保養地である。

ドイツは森に囲まれており、木には事欠かないし、自然の沼や川、運河などもたくさんあるが、海は別。最北端に行かないと海はない。そして、海といっても風が強く、決して穏やかな海ではない。ドイツの一般大衆は、海を見にイタリアやスペインの島や、タイに行く。これらの国はドイツ人にメジャーな旅先にもぴたりと当てはまっているから、よくいわれることだが海や太陽への憧れが強いのだろう。そこでは、太陽がさんさんと照りつけ、海は穏やかであくまでも青く澄み渡っている。強い風ではなく、生暖かい微風がじりじりと照りつける太陽に焼かれた肌をなでていく。軽快な音楽をバックに甘いカクテルに酔いしれる夏のバカンス。

一方、北ドイツの海は、夏でも涼しく、時には寒いくらい。したがってこのような箱に入って蒸されながら汗ばむように日光浴をするというのだ。高級リゾートなので人もほどほど、対極的に静かな休養の地である。そこには静寂とビールやワインが似合う。

あるときドイツ人が寒い鉛色の冬の海も、あけすけに明るい夏の外国の海と同じように好きだと知ったときは意外だった。太陽の熱と明るさを求めて世界をさまようかと思えば、そのまったく反対の自然の荒々しさも好きだというのだ。そんな国民性は、しかしもとをたどれば同じように自然が好きなところからきているのかもしれない。

ドイツでは北海の海岸を、強い風に吹かれながら散歩すると風邪をひかないという。そのために、冬の初めに「ちょっと北の海まで行ってきます」などと言う人の言葉をきいて以前はおどろいたものだ。寒い時に、ましてやこれからもっともっと寒くなるというのに、わざわざ寒さを感じに行くことなどないではないか。

しかし、今はその心地よさを味わう前から予感することができる。というのも一度冬の休暇をどこにするかドイツ人に相談したことがあって、「寒いときに寒いところに行くのもいいわよ」と言うアドヴァイス通りティティゼーという湖がある小さな雪深い村に滞在したことがあったのだが、それが予想に反してよかったのである。

運動が苦手なのでウィンタースポーツも楽しめない。しかし、散歩したり、凍りついたあとに綿雪におおわれた湖や、その周りを攻めるように囲む深い森の勢いや、雪の下から顔をのぞかせる真紅の木の実、その向こうをはねる野うさぎを見ているだけで時間があっという間に過ぎていた。

その滞在中、ある日の朝食後に完全防備して雪の小道をさんぽした時のこと。「散歩しているドイツ人がいないなんておかしな日」といいながら歩き、村の中心に設置してあった温度計をみると、なんとマイナス26度であった。雲ひとつない、まぶしいほどの晴天で、雪の結晶一つ一つも輝いて見えたくらいだったのだが、さすがのドイツ人も散歩は午後までお預けにしたようだ。温度計を目にしたとたんに、急に体がかじかんでいるのに気づき体の機能が止まりだした(ように感じた)ので、あわててタクシーでホテルに引き返したことを思い出す。気温が分かったとたんに寒くなるのも不思議な話だが実話である。そういった事情もあって、外を散歩するばかりでなかったが、昼食と夕食は居心地のよいホテル内レストランでキャンドルライトとともに時間をかけてゆっくりと愉しむのだから、それだけで一日の半分は過ぎていく。外は寒いが、かえって暖かい雰囲気をこころゆくまで味わえた。そのときはクリスマスだったが、派手な装飾もイヴェントも何もなく静かに時間は流れていき、気がつくとチェックアウト。お会計をするのに順番を並んでいると、何組かの家族はもうすでに来年の予約を入れていた。

寒いときに寒いところにいった想い出はもうひとつ。初冬に、ただでさえ凍り付いていたスコットランドを北上して最北端の海を見に行った。そこにいたるまでの長い長い道のりの後半はアスファルトでなく土の道であった。

この世の端とか終わりとかを思わず想像させる、荒涼としたなだらかな谷間を縫って大きくうねる道は、高台から見ると何かの昆虫の足跡のようであった。木や森はほとんどなく、岩やコケで覆われたなだらかな谷間を何時間も車で走り続け、そうしてようやく見えてくる海である。もちろんドライブインなどというものはなく、自動販売機も、トイレも、外灯も、センターラインも、すれ違う車すらない、この世から隔離されたような道中。その先には、人が荒らした海ではなく、もともと自然に荒れているそのままの野生の海があった。

スコットランドでは冬の間に太陽の光を感じることなどめったにないのだが、その日もごたぶんにもれず空はどんよりと鉛色をしていた。しかし、海岸の砂浜を歩いていると突然、真っ白い雪がふわりふわりと漂い始めた。次第に雪が激しくなり、目の前が真っ白になってきたとき、こともあろうに体が勝手に動き出し、気がつくとことばにならない大きな声を出しながら海の中に突進していた。注釈しておくとその頃の生活にはわりと満足していて、大して困っていることも苦労してたこともなく、毎日が適度に楽しく充実しており、たいしたストレスもなかった。正確にはある程度は一生懸命だったのだろうが、まだ若さを武器にほわんと生きていた。そんなひとが、なぜ突然奇声を発しながら、真冬のこの世の果てとも言える海に突進しなければいけなかったのか。

あの時は自分の行動の意味が「衝動」ということば以外に説明できなかったが、今あらためて考えてみると、あれは抗うことのできない海に対する歓喜のようなものだったような気がするのだ。荒々しい自然を前に、自分の中の野生の部分が呼応したというような。しかし、私は泳げない。寒さに弱く低血圧の冷え性である。しかし、それはそれなりにジャブジャブと波とたわむれ、水の冷たさに歓声をあげながら走り回っていた。そんな自分を抑えることができなかったのだ。となりに誰かいて、抱きあげてくれもすれば一枚の絵になったかもしれないが、実際のところはそのようなことは映画の中の出来事でしかない。そのとき一緒に来ていたひとは、アスリートで、筋肉のよろいと鍛えられた精神を持っていたというのに、海岸の波打ち際よりもっと向こうの端から、背中を丸めてただ呆然とこの小さい東洋人の奇行をながめていただけだった。
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話は戻り、なんとなく旅情緒をかきたててくれるこの箱型の海ベンチのこと。ドイツでは夏の一時期、ちょっと高級な感じのするオープンカフェやホテルのインテリアに使われているのをしばしば見かける。この箱は二人用になっているところがユニークだと思う。一人でなく、二人以上ではないところが。二人で海にきて、一人一箱づつが使うことがあるのだろうか。ドイツ人はいくつになっても、というか年齢を重ねるごとに仲がいいから、きっとそんなことはないのだろう。ヨーロッパのどの観光地を訪れても、手をつないでいるふたりから聞こえてくるのはきまってドイツ語だ。それも自分の知る限り中年以降が多かった。

さて、我が家の場合はどうだろうか。娘が大きくなるまではおそらく私が一人で、夫が娘と二人並んですわることになるような気がする。娘はパパが大好きでやきもち焼きなので、夫と私がひとつの箱に並んで座れば、間に無理やり入ってきて箱が壊れてしまうかもしれないから。
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まだ訪れたことのないドイツの北海に思いをはせながら、または昔行った海を思い出しながら、あるいは海が苦手な人も気軽に楽しめるカフェが「STRANDBAD」。店内は、よく見るとさりげなくプールのイメージでスチールのはしごがついていたりする。そんな海や水辺の雰囲気があることを知っているのか知らないのか、とにかくいつも混んでいて、時間帯によっては席を見つけられないことが多い。メインストリートから大分あるし、細い小道の先にあるカフェの隣は行き止まりという場所の悪さ。しかしその離れ小島的ロケーションがかえって賑わいを引き立てている。隣町から目指していく人気の海水浴場と同じように。

STRANDBAD MITTE
KLEINEHAMBURGERSTR.16
10117 BERLIN
TEL.030-2462 8963
(S)ORANIENBURGERSTRASSE
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by sommergarten | 2006-05-23 04:07 | cafe

Cafe an Altes Nationalgaralie (MITTE)

一週間休みを取った。しかし、ローマにもパリにも、マヨルカ島にも、どこにも旅行に行っていない。ベルリンに滞在していた母のそばでベルリンにいた。何をしていたか書き出してしまうと、たったこれだけなのかと、退屈な休暇に聞こえるかもしれない。

平日の午前中に、住宅街にある静かな老舗のカフェでバームクーヘンを食べた。日中家にいて掃除をするつもりが、昼寝をむさぼってしまい、夕方までねむけまなこでいた。夜になってシャルロッテンブルグ城ではじまったばかりのコンサートにでかけた。これは比較的派手な出来事。青空フリーマーケットで、旧東時代のアンティークのカップを選んで回った。デパートにお土産を探しにでかけた。そこで香高いフルーツティーと、缶にドイツの街並みの描かれたコーヒーを買った。そんなような、のんびりとした一週間。
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そのなかで、いちばん印象に残っているのは旧博物館でのゆっくりとした昼下がり。世界遺産の一部ながら、観光客がお隣の有名どころに吸い取られてしまって、人気のない旧博物館で半日を過ごした日であった。
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旅行のプロとして、地図をみてきちんと日程を組めば、まちがいなくもっとたくさんのものを見てまわれただろう。しかし、予定は一日ひとつ。現在からだに少しばかり不自由のある母と二人、努めてゆっくり歩いた。

母はもともと美しい人であるが、所作や言葉をふくめいつも身奇麗にしているので、オマ(ドイツ語でおばあちゃん)になった今でも美しく見える。母にはいつも人のことばかり考えずにもっとあつかましくなって欲しいと夫にこぼしたことがあるが、夫が言うにはそれは母が母である以上無理な相談であり、どれだけ綺麗でもあつかましい人は美しくは見えない、だからこそお母さんはきれいに見えるのだよということだった。納得した以上は、もうこれからはあつかましさを母に無理強いすることはできなくなった。一方で、母と一緒に出かけると私とてせめて鎧くらいはもう少し気を使わねばならないと思う。私と母はまったく似ていない。外見も性格も。偉大な父には、尊敬こそすれ腹が立つことも少なくないのだが、私はそんな父親に似ているようなのだ。

ふと、父が遠い昔にいっていたことを思い出していた。「ママにはひとつだけいいところがある。それは、プライドが高いところだ」。ふうん、ママみたいな良妻賢母をつかまえてよくそんなことしか思いつかないわね、そのときはそんな感じであったのだが。二人はお見合いで、ほとんど顔を見ることもなく、何の疑問も疑いもなく、素直に母が嫁いできたという話。そんなことが、許されていい時代でも、この私ならお断りだっただろう。父のような人と、ということではなく、まったく知らない人との結婚という意味なのだが、しかし自分が良く知っていると思って結婚した今の相手に関しても、まだまだ知らないところがあるし、知らなくても、あるいはすべてを知らないほうが粋な関係でいられるような気さえ今はしている。いずれにせよ、父と母は歳を重ねるごとに仲良く見えるし、幸せそうだ。二人から生まれた私も、今日を幸せに、平和に生きている。

「行間を読む」という表現を借りれば、この休暇は行間が実際の行よりも多かった。行程のほとんどない日程表。しかし、その行と行の間や空白の部分は、その時々で偶然を装ってか、ただの偶然にか、なにかしらで埋まっていった。何の変哲もない通りすがりのカフェや、そよ風に揺れる新緑の色から、口に出すほどのこともないそれぞれの想い、またはとりとめのないおしゃべりや、甘えからつい飛び出してしまった一方通行の感情などで。おかげで予定表にはない喧嘩もしてしまって非常に申し訳なく思っている(祭りその後)。

あらためて思い出してみると、どれもささやかな一日だったような気もするが、自分にとってはとても楽しい贅沢な時間だったから、一緒にいてくれた母にあらためて感謝したい気持ちになっている。

約二年前、はじめてここに来たときには、100年前の重いドアの開閉すらできずに困っていたひとが、今では市場で自由に買い物ができるようになっている。現在、冷蔵庫はオマの買ってきた新鮮な野菜や肉、魚、数本のたこの足などで冷蔵庫も冷凍庫も満杯である。買い物が終わると、一人でコーヒーを飲んで帰ってこれるようにもなったようで、自分のことのようにうれしい。

その進展ぶりにすごいなあと感心する反面、これ以上何もできないでもいいのです、あなたの存在そのものが貴重なのだから、それを忘れないでください、という気持ちにもなる。ほどほどに自分でできる楽しさを味わいながら、頼れるところはしっかり人に頼って、これからもプライド高く、しとやかに愛らしく暮らしていってくださいな。

世の中は大きく分けて、がんばるべき人と、がんばってもらうべき人との2部構成のような気がしている。そして、それは心身の強弱とはまったく関係ないものだと思う。お互いがお互いの存在を必要としているから、機能したときに幸せに感じられる、のではないか。
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出現しては消えていくカフェも、この間まであった建物全体がすっかりなくなってしまっていることも少なくない時代。しかし、ここなら大丈夫。世界遺産なのだから、今まで大切にされてきたように、後世までしっかり世界が守ってくれるだろう。

旧博物館にある夏限定のカフェでそんな母とくつろいだ初夏の日。ゆったりとした時間が流れたさわやかな午後。旧博物館を訪れるたびに思い出すことだろう。
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by sommergarten | 2006-05-14 16:06 | cafe

Oderberger (Plenzlauer Berg)

このあたり一体は、カフェ密度が高い。なかでもここはいつもにぎわっている。
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個人的に「朝食のカフェ」とよび、いつもここに来るとこれを注文する。お昼ごはんに。
お供の都合がつくときだけのふたり分。
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しかし、いちばんのごちそうは季節ごとにかわる植物と太陽のまなざし。
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by sommergarten | 2006-05-06 07:16 | cafe