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WM 2006 X (BERLIN + CAFE)

「alle WM live!(ワールドカップ全試合放映中!)」

今は、たいていのカフェの入り口に、こんな言葉が大きく書かれた看板がたっている。いつもは「今日の昼定食」が細かく書かれているはずの黒板なのだが。中に入るってみると、たいていは奥まったコーナーがカーテンで仕切られていて、暗所に大スクリーンが特設してある。この時期、ワールドカップの中継をしていないようなカフェは集客できないのか、どこもかしこもテレビ放映をしている。画面の前に座っていないくても、試合の運びがだいたい分かるように、普段はBGMのない場所でも、テレビの音量があげられていて、サッカーファンは安心していられる。しかしスポーツ観戦に興味のないものにとってはどこに座ってもあまり落ち着かない。中継放送をしていないカフェなど今はほとんどないのだから、これは四年に一回のお祭りだと割り切って、そわそわした気分の高揚を、これはもう一緒にひととき楽しむしかない。
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ドイツ人は普段ほとんどテレビを見ない。時間があっても見ない。家にテレビがあってもあまりつけないし、決まった時間にニュースだけ見るとか、テレビをおかない主義の家も少なくないようだ。チャンネルは20以上もあるとはいえ、ドキュメンタリーの例外を除き、ちっとも面白くない。面白くないから見ないのか、見ないからいいものがつくられていないのか、それはどちらが先かわからないが、とにかく日本と違って生活の中心にあるものではないし、なんとなく見るものではなさそうだ。テレビが情報源ということもない。ちなみにドイツでの情報源は知り合いからの人づての情報が一番頼りになるようで、次にインターネット、それから街のあちこちにある広告塔(たくさんのポスターが一定期間ごとに張り替えられる)であろうか。

さて、 そんな人たちが、このワールドカップの開催期間、みんなテレビに張り付いている。オリンピックですら見向きもしなかった人たちだ。仕事の合間の休憩時にレストランやカフェがならぶ通りをあるいているとあちこちから歓声が聞こえてくるし、帰宅時の住宅街を歩いていると、テレビ中継の解説者の声が音声多重となって通りに響き渡っている。夜10時すぎまで明るい夏の陽気の相乗効果で、ふだんからにぎやかな通りは連日連夜のお祭り騒ぎである。

シュートが決まったかどうかはテレビを見てなくても分かるようになった。仕事場の近くのビヤガーデンに特大スクリーンが設置されているようで、そこに集まったひとたちや、その通りに軒を連ねるカフェで観戦してしている人たちの声が一体となる瞬間がある。そのとき、合唱のような「おおぉ!」が聞こえてきくるのだ。その後に、口笛(ヒュー)や笛のラッパの音(ブー)がいっせいに鳴り響いたらゴール、声のトーンがこれまた合唱となって下がっていったら入りそこね。

6月22日、9時から日本対ブラジル戦が始まったときは、仕事場で残業を片付けていたのだが、窓越しに聞こえてくるその歓声で、日本がゴールを入れたのだろうとすぐに分かった。しかし、なぜブラジルではなく、ゴールを入れたのが日本だと分かったのか。それはその「おおぉ!」の大合唱の声色であった。それは今まで聞きなれてきた普通の歓声とはぜんぜん違って、突然何かに魅入って思わずこぼれるため息のような声の合唱であったのだ。さらにその声には明らかに驚きと同時に、敬意の念がこめられ、最後にはあっけにとられたようにかすれていたのだから。ブラジルの得点であったら、ただいつものようなからりと乾いた歓声のはずで、あの時は明らかにトーンが違って、これは日本にちがいないと確信した次第であった。

テレビにへばりついているはずの家人にすぐに電話で確認してみると、感動で声が出ないような、あっけに取られたようなこちらもかすれ気味の声で事の次第を、つまりはいましがたどれだけすばらしいパスとシュートが、それもブラジルを相手に繰り広げられたのかを、完全に魅了されてしまっていてかえって静かに語ってくれたわけである。(その後は、からりとした単調な大声援が続くこと4回。したがって、それからは電話で確認することを辞めて仕事に集中した。)
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前回のクロアチアの試合は、夫の強い希望によりポツダマ-プラッツにあるソニーセンターの特設観覧席の大スクリーンで観戦した。空港と同じような厳しいセキュリティーチェックをうけたのであるが、ボディーチェックもかなり念入りで、2歳の娘も一人でチェックを受けなければならず、挙句の果てはオムツの中までチェックされていた。が、役立ちそうな凶器などはなかったようで、隣で見つめているのが善良そうな両親だけに周囲の失笑をかっていた。そんなことも含めて面白い経験ができたのは良かったが、試合が始まると画面の向こうの選手に野次を飛ばすくらい真剣な応援団のそばで、なんとなく違和感を感じることもしばしばあったのだ。
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お気楽な「期間限定・応援団」にとってはスタジアムでなく、特設観覧席でもなく、カフェのカーテンの向こうの大スクリーンの特別席でもない、基本的には小型テレビがただ引っ張ってきてあるカフェで楽しむのがもっとも適切である。やる気があるのかないのかわからない程度のカフェで、ちらっとみてちょこっと一緒に声援をあげているのがよさそうである。
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普通の、というか少々時代物といえそうな、小さなテレビが申し訳程度に置いてあるカフェなら、申し訳程度の観客も安心して座れるというもの。一般家庭にまだテレビが普及していなかった頃はこうだったのだろうか、などとふと思わせる懐古的設備。歩道の路上にテレビを出してきて、近所の人やお店の隣同士が集まってわざわざ一緒に観戦している光景も良く見かける。大スクリーンと言うものでなくて、ただの小さいテレビを無理やり延長コードで引っ張ってきているだけなのだが。日本のサラリーマンご用達の定食やなんかを思い出す。テレビがつけっぱなしになって扇風機が回っているところ。お客同士の会話はあまり無くてもなんとなく家庭的な雰囲気の。ベルリンのカフェは今まさにこのような日本の古き良き定食屋状態で、どこかの国がゴールする度に、それを共通の話題として雰囲気がうちとけていく。外に設置されたテレビは夏の太陽の日差しが反射してこれほど見づらいものはないのだが、そんなことにはお構いなし、優先順位はここにいる限り皆で一緒に見る、ということのようだ。
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ところでドイツでワールドカップにあたるドイツ語の略はWM。これはヴェルト・マイスターシャフト(世界マイスター選手権)の略。マイスター制を誇るドイツのお国柄をあらわしているようで、なぜドイツ人がここまで熱くなるのか(あるいは重要だからこのようなネーミングになっているのか定かではないが)、ここに垣間見れるような気がするのだが。

さて、ドイツは世界のマイスターなるか。開催国でもあるし、ここはぜひともトップに立って会を盛り上げて欲しい。このようなことを書くと、まるでドイツを応援しているように聞こえてしまうかもしれないが、これは発言が無責任なだけで、実際はそうではない。ほかの国を応援するほど知識も、知恵もない。それにたとえ自国のチームが負けても、その国とチームを誇りに思う気持ちに変わりはない。勝っても負けても日本が一番。

スポーツは試合においては勝ち負けしかない。点数しかない。分かりやすいがプレッシャーも多いだろう。どんなに下手でも点の入ったほうが勝者であることは揺るがないし、相手は自動的に敗者。勝敗の別れは点数のみで決まり、勝つことに一番大きな意味がある。勝たなければ意味がないともいえるかもしれない。

しかし、今回の日本のプレーを見ていると、真剣なサポーターには叱責をうけそうだし選手に対して無神経な発言なのかもしれないが、個人的な感想として今年の日本のプレーはとても立派だったと思う。何人かの知り合いのドイツ人も、勝者の余裕というものだけでなく、ただ素直に思ったまま、完敗したにも関わらず日本のチームやプレーをほめる人が多いのだ。テレビ解説者もしかりであった。自分自身、4年前や8年前の試合をつぶさに見ていたのかどうか、定かではないが、とにかく記憶に残っているのは日本のチームはゴールに近ずくことすらままならず、ボールが停滞してばかりいたということだった。その力の差に仰天して、素人ながら「これで世界と対等にやろうと思っているのだろうか」とあきれていた。それに比べて今年の試合の中での彼らはぜんぜん違った。もちろん試合の結果ではなく、前回と今回の日本チームを比べているだけであるが、その成長振りにたまげた。ボールがゴールに向かっていくつも飛んでいるではないか。入る入らない以前にボールがそちらの方向に飛ぶことすらあまりなかったという印象をうけていた以前の試合とのあまりにもの違いに、おもわず夢中になって固唾を呑んで見守った(日本とドイツの親善試合および日本対クロアチア戦時)。以前はどちらかといえば、前述の理由により少々しらけてみていたのだが、今年はもしかして、などという期待を持たせてもらってドキドキしながら観戦していた。以前はボールが行き場を失って停滞しているを見るのは悲しかったものだが、今は素人目にもはっきり解かるほど格段にレベルアップしているし、スピード感があった。サッカーボールと選手との一体感が感じられた。

私は熱狂的なサポーターではないので点数は脇に置き、何を素晴らしいと感じたかと言うと、それはこの進歩振りでしかない。到底無理、と恥ずかしく顔を覆ってしまいたいようなチームが4年ないしは8年もの厳しい訓練と経験で世界と同じ土俵に立っているということが。日本のサッカー選手を見ていると明らかに体つきや生まれ持ったものの違いを感じるし、適材適所ということばをふとをかみ締めてしまう。この進歩は並々ならぬ努力と、訓練の賜物でしかない。まるで野生動物のような、中田選手の滑らかに鍛えぬかれた、後天的に造りこまれた肢体と同じ肢体をもった選手が、相手チームのどこにいただろうか。

外国に住むようになってから、ヨーロッパ、アジア、アフリカなど、さまざま文化背景を持った人々と一緒に働いたり接触する機会を持って、いくばくかの個人的経験で予測するに、おそらく日本のチームほど多角的に、真剣に、一生懸命に厳しい訓練をしたチームは世界にいないのではいかと思う。たとえそうだったとして、それがこの結果であるのなら、それはスポーツ世界用語を忘れると、実質的には日本は弱いということにはならないのではないかと思う。ものすごい快挙だと思う。不適材を努力と信念とその継続時間で適材にここまで近づけたのだから。世界を相手に勝つことだけなら、最初からマラソンや、剣道や相撲や、せめて野球を、もっと日本人の体格や体質、精神にあうスポーツして少しでも確率をあげればいいのだと思う。

しかし、いつも好むべきものを好きになるとは限らない。サッカーを好きになった以上、生まれ持ったハンディーを乗り越えてでも、その土俵で、サッカーで勝ちたいという気持ちは理解できるし、ここにかすかに思い浮かんでくるのは、「男のロマン」などという古い言葉だ。いまどきこんな言葉を使う人がはたしてどこかにいるのかどうかもわからないが。なぜなら確実に、無駄なく、速やかに勝者になれる分野で、何事もスマートにできることに価値がありそうな世の中なのだから。「ロマン」などとは不確かで、あやふやで、なんとも現実味がなく、情けなく軟弱に聞こえる。不真面目に響くし、場合によっては不謹慎であるかもしれない。しかし、夢が、夢でなく目標となったとき、そしてそこに執念とそれを実現するための継続的な努力が続いた時、ロマンが現実になることもあるかもしれない。そういうチャンスはロマンを持たない人には一生やってこない。

4年後はどうなっているだろうか。そんな期待をふと持たせてくれた今年の日本のチームに感謝したい。負けることは無様で、がんばっても自分が思うようには実を結ばないこともある。そんなことを目の当たりに見せつけられたが、そんな世の常を、なぜか今回は無念どころかさわやかな気持ちで眺めることができた。それはそこに彼ら自身における何らかの、それも明らかに分かる違い、進歩があったからだと思うし、真の涙というものはあらためて美しいものなのだと思い出した。
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by sommergarten | 2006-06-27 18:26 | 街角ブレイク

気まま・ベルリン百景(一)

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きっちり中途半端。
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by sommergarten | 2006-06-13 08:45 | 街角ブレイク

MOEBEL

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1989年にベルリンの壁が壊れてから、16年がすぎた 。東西で明らかに様子が違った建物の状態も、資本が入るや否や、とまで早くはなかったにせよ、今に至ってはすっかりどこが東でどこが西だったのか、その外観からは分からなくなってしまっている地域が多い。
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ヨーロッパの石造りの丈夫な建物は、改装すればいくらでも見違えるようにきれいになるし、いつまでも実際に使用できる。旧東地区では近年においても、セントラルヒーティングではなく褐炭の暖炉を使っていたアパートが多かったらしい(注:褐炭とは石炭化度の最も低い石炭で、多量のすすと臭気を出す特徴のある燃料)。そのせいかアパート群は真っ黒だった。それが壁の崩壊後、次から次へときれいに化粧直しをして見違えるように美しくなった。それらには昔の住人からすれば法外とも言える高い家賃がつけられ、ちょっと裕福な若い夫婦たちの手にわたり、おしゃれなカフェに変化してきた。
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白やレモンイエロー、コロニアル調サーモンピンクなどのしゃれたアパートの合間に、ところどころ残っている黒くておんぼろの建物。それは旧東時代からのオリジナルの建物であることが多いのだが、少数派となった今となってはかえって目を引く。褐炭のすすによる黒ずみと、経済的理由により改装できなかった時代物である。それらのなかには改装途中のものや、その順番を待っているもの、あるいは理由として一番ありがちなのは、ただ単に経済的理由により今でも改装できない、一見恵まれないように見える建物たちである。
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しかし、それ以外にわざと改装しないでそのまま使用されているものもある。昔を忘れないためとか、歴史の生き証人として、などというかたいことはぬきに、ファッションとして、ただ人生にはおるひとつの洋服のように、身に着けるアクセサリーのように。そのままオフィスに使ったり、古着を売ったり、アトリエにしたり。時代遅れの古ぼけた趣でさえ、建物や、インテリア、洋服のひとつのファッションとして楽しむ風潮がベルリンの若いアーティストやクリエーターにある。この「若さ」はかならずしも年齢を意味しているわけではなく、最新の、と言う意味でもある(世代がずっと上で流行の最先端を行っている人が、ベルリンにはすくなからずいると思うから)。

そんな彼らは、しかし一見するとそんなものの古さに無頓着、のように見える。自分が好んで移ってきたおんぼろのアパートでも、それがいつ建てられたものかすら知らない、あるいは知る気がなかったりする。あえて身に着けた古さへの執着も薄いように感じられるのだ。それはたとえばその建物の古さを強調することなく、あえて何も語らせない、語らないところからも感じられる。まるで、改装するのがめんどくさいので、安かったので、そのまま使ってます、そのまま住んでます、といわんばかりのさりげなさなのだ。そういうスタンスの主人がいる恩恵を受けて、建物もインテリアも、きまりすぎて肩がこるようなことがないのがベルリン流。そしてファッションであるチープさは、実際にもお金が掛かっていないのだから一石二鳥で合理的。
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このカフェの建物は旧東時代からのオリジナル。カフェとしてはオープンしたばかりの生後3週間。それなのに、とてもくつろげる。古ぼけた構えのなかも、アンティークというよりは時代遅れのいすやテーブルをつぎはぎしてつくった空間がひろがっている。そう、広がっている、といえるくらい空間がある。店内はとても狭いのだが、その広さ(狭さか)に不釣合いなほど席数が少ないのだ。これで商売がやっていけるのかと他人事ながら思わず心配してしまう。

それはまるで隙(と隙間)のある不完全な居間のような雰囲気なのだ。それゆえかえって落ち着居た空間に完成されている。冷めた情熱がほどよい距離感でつたわってくるカフェ。不本意ながら常連になってしまいそうな最近のお気に入り。

ところで、センスがいいと感じたものによく使われる表現は、日本では「かわいい」が代表格だが、ドイツでは「クール(=かっこいい)」。若年層の言葉とはいえ、それぞれの国の人の価値観を的確に表しているから侮れない。
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by sommergarten | 2006-06-02 14:53 | cafe